「江戸・東京の地理と地名」を読む・「東京の半分を占めた武蔵野」

 武蔵野の「野」とは特異な自然の姿だという。その実態は原生林を燃やして畑にする焼き畑を繰り返した結果、豊かだった原生林が消滅し残されたところで、それが「野」だという。そしてこの「野」は、木・林・森が形成されず、したがって川もできずに、ただ放置されたのである。

 11世紀初頭に成立した万葉集の時代にはまだ「野」という表現はなく、中世の太平記では「小手指が原」などの「原」がつかわれている。

 この「野」が再開発されたのは、江戸開府から100年以上もたった享保改革(18世紀)になってからだという。この古代以来の武蔵国多摩郡は、明治11(1878)年11月の郡区町村編制法により、神奈川県内の西・南・北多摩郡に分割されている。そして、北多摩郡が埼玉県に続く「武蔵野」の範囲であったという。
 現在の東京都の人口増加の大部分は東京都心の事業所に通勤する勤労者であり、その勤労者の住宅で住宅地化はしたが、それは生産・流通・消費のバランスを欠き、都市としての機能は未発達のままであったという。つまり、近代的な「野」が展開しているともいえるのだという。
 この指摘に私は全く同感である。「野」という状態は地表に生えた樹木を根こそぎ切り倒したり、焼畑をつくるために樹木を焼き払い続けた結果、雨が地表にとどまれず、いわば砂漠状態になった場所を意味する、からである。

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